ふるさとの風景その1                   ホームへ戻る

警告

このページの製作中、十数年前に亡くなった私の親父が見に来ていた。2〜3日ほど様子を見て、10月16日の朝、黄泉行きの列車に乗って帰っていった。家を出る時には、私と一緒だったが、私が切符を買うのにもたもたしている間に、さよならも言わずに一人でさっさと列車に乗っていってしまった。結局、私は切符を手に入れる事は出来なかった。おそらく、この列車の切符は簡単には手に入らないのだろう。親父は、このホームページの最初の閲覧者だと思われる。このページには、黄泉の世界に通じる駅の入り口があるかもしれないので、不用意に入らないように注意して下さい。一旦入ると戻り口が見つからないかもよ。

全国に多くの人材を輩出した。としておこう。理科室には、桂沢で採取されたアンモナイトの実物化石がたくさんある。なかには、バスのタイヤほどの大きさのものもある。科学雑誌Newton『骨』でも紹介されました。アンモナイトの鑑賞は、三笠市立博物館でどうぞ。

45年前は、普通科の他に、工業系の自動車科、土木科、そして戦後の家族制度を支える強く明るいきもったま母さんを養成する家政科を有する総合高校。

三笠高校体育館 校舎の壁に、経年のあかが目立つ。

自分が高校生の時、木造の体育館が鉄骨の建物に建替えられた。職人さん達が、鉄骨の接続に、高いところで真っ赤に焼けた鋲を打っているのを下校時に飽かずに眺めていた。なぜ、ボルトを使わずに鋲打ち方式なんだろうと思いながら。この体育館はその後に再度建て替えられたものと思う。

三笠ドーム 壮大な箱物!? 。市役所の改装を後回しにして、地域振興を優先した?。(取材・検証してないのでなんともいえません)

三笠市役所 建設当時は、人文字型のモダンな庁舎だったが。

高校生の頃、清住霊園の管理について、市役所に苦情のはがきを出した。

霊園担当の厚生課長さんは誠実に対応してくれた。

道道116号線側よりの市役所。右手が岩見沢方面

左は、清住霊園入り口、真っ直ぐ行くと中央中学校跡、右に曲がると唐松

三笠市営清住霊園(平成20年8月14日)

奥の住宅群と墓地の間は、幾春別川が流れており、田畑がある。

右手側が岩見沢・札幌方面、左手側は、桂沢ダム・富良野方面

ここには、戦後の産業復興を支えた自前のエネルギー調達(国内炭の増産)の最前線にて犠牲(炭鉱事故)となった人たちも眠っている。

清住霊園火葬場

一世代前の火葬場は、石炭方式で高い煙突があった。火葬時には、ここからの火葬の香りつきの煙が、下の幾春別川に合流して流れていった。

住友奔別鉱の立て坑、現在は閉山。

幾春別市街。奥に見えるのが、左の写真の奔別鉱立て坑。ここから桂沢ダムを通って、芦別、富良野、夕張に至る。桂沢ダムを超えて、芦別に至る川筋では、今も、(探せば)アンモナイトの化石が取れる。又、春には山菜も取れる。しかし、ここは、熊んこの縄張り。だれしも縄張りを荒らされる事を快くは思わない。

国鉄幌内線終着駅の幾春別駅跡(岩見沢駅から分岐) 幌内線は、住友奔別鉱、北炭新幌内鉱の石炭を運び出す為に作られた。炭鉱の閉山とモータリゼーションの波とともに、その役割を終えて廃線となった。今は全面舗装された道路が、国道12号線を岩見沢で分岐し、桂沢ダムを越えて、夕張、富良野、芦別に至る

北炭新幌内鉱&国鉄唐松駅 遠景(昭和30年代後半 清住霊園側より撮影) 

真ん中に見える右上に伸びる三角の山は、いわゆる“ずり山”で石炭と一緒に掘り出された岩くずが選炭後捨てられる。煙突右側の白い蒸気が上がっている付近が国鉄唐松駅(とうまつえき)。右は炭鉱社宅群

新幌内鉱、藤松炭鉱から掘り出された石炭は、この駅で、石炭貨車に積み替えられて各地へ運ばれていった。この石炭貨車は、ときには45両連結にもなったが、これを1台の蒸気機関車が牽引していた。

元、藤松(とうまつ)炭鉱へ至る道があった沢。この奥に小さな炭鉱があった。

ここには、左の奔別鉱の坑内排気塔もあり、巨大なモータが轟音を上げていた。今は、北国の植生が、廃棄された炭鉱設備のコンクリートの構造物を覆い隠してしまった。自然の反抗か。ここから掘り出された石炭を積んだトラックの列が、幾春別川の堤防沿いの道を通って、国鉄唐松駅に運び込まれた。

幌内炭鉱閉山ニュース

介護老人福祉施設。元は、北炭新幌内鉱の清住社宅があったところ。当時たくさんの人たちでにぎわっていた。その喧騒は、今ここに居る人たちの胸のなかに、全てしまわれてしまったのだろうか。

清住町通り。左側が介護老人福祉施設。50年前には、この通りの右側には多くの商店が並んでいた。この通りを毎日てくてくと小学校に通っていた。自宅が通学区域の端っこだった為に、小学校までのみちのりは遠く、早く中学生になりたいなと思っていた。もっとも、中学校までもそんなに近くはなかったが。